大嶽山興福寺沿革

平安時代

大嶽観音は、平安時代の初期大同2年(807年)に征夷大将軍坂上田村麻呂の創建、京都清水寺延鎮法師の開基という。
今より1千有余年前、幾多の兵火などにより古記録を失い、詳細は判明しないが、近世の縁起によれば、蝦夷の将を大武丸といい、田村麻呂はこの蝦夷を当山において殺害し、遺骨を7分し、7か処に分葬して、それぞれ観音の浄閣を建てたが、大嶽観音はその一つと伝えられている。当時、東に興福寺、西に天王寺の2寺と48坊を造営し、国家鎮護、蝦夷の教化にあたったという。

安土桃山時代

以来、幾多の興廃をたどり、葛西清重が当地方を領有のとき、その一族葛西近江守が当地を預かって細川城におり、その弟重高が了全と号して興福寺を再興、大嶽観音の別当となり護持にあたったと伝えられている。 のちに葛西氏は、小田原の陣に不参加のため、天正19年豊臣秀吉によってすべて没収され、葛西の当主晴信は滅亡、当地は豊臣の家臣木村伊勢守吉清に与えられたが、悪政のため葛西、大崎の遺臣の一揆がおこり、佐沼城を囲む。蒲生氏郷、伊達政宗が鎮圧を命ぜられ、この地は平定されて、この地は伊達氏の所領となった。このとき、当山の別当天了は一揆方に荷担して討死、所領は没収、寺塔も観音堂を残すのみとなった。

江戸時代

大嶽山興福寺の参道に作花元和5年、山学坊永盈が亘理坂元より来たりて観音堂の別当となり、荒れた寺塔の復興にあたったので、中興の祖という。
天了の参戦により寺領は召し上げられ、観音堂周囲の山林も仙台領の用材林となっていたが、元禄時代に入ってから観音堂及び別当所諸地が除地として拝領された。当地方が伊達氏の所領になってから佐沼は要衝の地として津田豊前守景康が領主となる。津田氏は大嶽観音の名跡を重んじ深く尊崇につとめた。 4代春康のとき、伊達綱宗の病気平癒の祈祷所(封内霊山10か処の下命)に推載され、宝永5年5月甲開白、翌6年5月祈祷中に失火のため観音堂は焼失した。同7年11月観音堂が再建されたことにより再び続けられ、正徳2年11月結願、以来伊達家の御所禱所となっていたのである。

明治以降

明治維新となって神仏分離令が出され、明治5年興福寺は、箆峰寺の末寺となり天台宗に帰入したのである。観音堂は昔のまま独立して寺が別当」となっていたが、昭和15年宗教団体法、仏堂整理要綱が施行され、観音堂は興福寺に所属、現在は同寺の本堂として祀られている。

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